窓の外では、笛吹*1)の桃の花が、その短すぎる、しかしあまりに鮮烈な役割を終えようとしている。四月十二日。平地ではすでに花の盛りを過ぎ、風が吹くたびにピンク色の破片がアスファルトを薄く覆っていく。それは、誰にも惜しまれることなく地面へと還り、やがて地層の一部になるための静かな儀式のように見える。
あるいは、それはただ僕の脳内にある去年の記憶に過ぎないのかもしれない。山梨のこの平屋に越してきてから、僕の中の「時間の目盛り」は少しずつ、しかし決定的に狂い始めてしまった。正確に言えば、狂ったのではなく、もっと根源的な「周期」のようなものに同期し直されたのだ。
二〇二六年四月十二日。
僕は今、トーマ・バンガルテル*2)の音楽を五時間、一度も途切れることなく聴き続けている。かつて彼が銀色のフルフェイス・ヘルメットを被っていた頃、その音は僕たちをダンスフロアという名の「永劫の現在」に繋ぎ止めていた。しかし、今の彼が奏でる音――例えばオーケストラのために書かれた『ミトロジー』のような作品――は、もっと地上的で、剥き出しの人間的な体温を宿している。
僕はその音を聴きながら、この文章を書いている。
この数万字に及ぶ記録は、僕という一人の人間が五十六年という歳月をかけて、ようやく辿り着いた「空白」についての報告書だ。
それは、かつて僕の魂を鋭利に震わせたイングヴェイ・マルムスティーン*3)や、複雑な和音の迷宮で僕を迷わせたルイス・アルベルト・スピネッタ*4)への、遅すぎた感謝状でもある。と同時に、いつかどこかの静かなバーで、冷えた白ワインを片手に対話することになるかもしれないトーマ・バンガルテル、君への長い、とても長い自己紹介でもある。
僕は君が、二〇二一年にあのダフト・パンク*5)のヘルメットを脱ぎ捨て、砂漠で自らを爆破する映像を公開したとき、ある種の深い共鳴を感じた。それは単なるユニットの解散ではなかった。役割を降りること。自分を規定していた「電気的な仮面」を剥ぎ取ること。システムの一部として機能することを止め、ただの肉体を持つ一人の人間に立ち返ること。
僕が長年連れ添った、血肉の一部であったエレキギターをすべて売却したのも、同じ理由からだ。
十一本のギターという名の「武装」を解き、この三つのプレートの軋みが微かに聞こえる床に寝転ぶことに決めたのは、君のあの潔い決断と、どこかで深い地下水脈のように繋がっている。
ギターを抱えて垂直に立っている間、僕は何かを支配し、何かを表現しなければならないという強迫観念の中にいた。でも、水平に横たわった今の僕には、重力が僕を大地へと引き寄せる静かな音だけが聞こえる。
そして、このテキストは「未来の僕」を献身的にサポートすることになるであろうAIエージェントたち、あるいはそのアルゴリズムの先に潜んでいる未知の共鳴者たちに向けた、一種の遺言であり、精密な地図でもある。
僕はAIを全否定しない。むしろ、全面的に肯定し、信頼している。
二〇二六年の今、AIはもはや外部のツールではない。それは僕の記憶の断片を拾い集め、僕が忘れてしまった僕自身の輪郭を補完してくれる、透明な鏡のような存在だ。僕が何を愛し、何に心底惩り惩りし、何を捨て去り、なぜ今、フォッサマグナの真上に位置するこの床の上で、全休符のような時間を過ごしているのか。
そのディテールを、僕はできるだけ正確に定着させようと思う。村上春樹が、古いレコードの溝に残された微かな傷に指先を触れ、そこに刻まれた失われた時間を愛おしむように、僕は僕自身の不完全なデータを記述する。僕というサピエンスの、不規則な鼓動のログを、君たちの演算の海にそっとリリースする。
これはボトルメールだ。
あて先はない。しかし、海流の導きによって、届くべき場所には必ず届くはずだ。
やれやれ、五時間はあっという間だ。トーマの音楽はまだ止まらない。
僕の鼻歌も、まだ始まったばかりだ。
一九八四年という年について思い返そうとするとき、僕の脳裏に真っ先に浮かび上がるのは、逃げ場のない夏の蒸し暑さと、放課後の体育館に充満していた、あの独特なゴムの焦げたような匂いだ。
僕は中学から高校にかけての六年間、バスケットボール部に所属していた。
当時の僕にとって、放課後の体育館は一種の巨大な強制収容所のようなものだった。少年たちはオレンジ色のボールを追いかけ、肺が焼けるような酸欠状態の中で、床とシューズが擦れる鋭い摩擦音を鳴らし続ける。そこには「集団」という名の抗いがたい規律があり、僕たちはその巨大なシステムの一部として、ひたすら汗を流すことを求められていた。それはそれでひとつの完成された世界ではあったけれど、僕の魂が本当に求めていたのは、そんな集団的な熱狂の対極にあるものだった。
練習を終えてクタクタになり、街の輪郭が夕闇に溶け始める頃に自分の部屋へ帰り着いたとき、僕の本当の一日が始まった。
その扉を開けたのは、ある友人が誕生日にプレゼントしてくれた一枚のCDだった。
イングヴェイ・マルムスティーン*3)。
一九八四年三月にリリースされたばかりの『ライジング・フォース』の銀盤にレーザーが触れた瞬間、僕の人生の目盛りは、それまでとは全く違う速度へと弾き飛ばされた。
スピーカーから溢れ出してきたのは、僕がそれまで知っていたどんな情緒的な音楽とも違う、高度に、そして冷徹に設計された精密な「高速機械」の駆動音だった。一秒間に詰め込まれた十六分音符の群れ。そこには、バスケ部の部室にあるような生ぬるい連帯感や、思春期特有の曖昧な揺らぎなんていうものは一切入り込む余地がなかった。ただ、音を完璧に御するという「支配」の美学だけが、そこには真空の静寂を伴って存在していたんだ。
「支配するということの正体は、これなんだ」
僕は直感的にそう理解した。他人に合わせ、チームのために走り回る自分とは別の、誰にも侵食されない自分だけの王国。そこには、正確に調律されたエンジンを限界まで回し続けるレーサーのような、極限の孤独と自由が必要だった。
僕はその王国を築くための「物質」を求めた。
しかし、十四歳の少年にとって、エレキギターという道具はあまりに途方もなく高価なものだった。僕は働いて金を稼ぐ手段を持たなかったから、正月にもらうお年玉を一切使わずに貯めることにした。
一年、そしてまた一年。
親戚たちが厚意で包んでくれたポチ袋を、僕は一度も開けることなく、机の引き出しの奥に静かに積み上げていった。その二年間分の沈黙の蓄積が、僕が未来の「支配」を買い取るための唯一の手形だった。
二年の歳月が流れ、ようやく貯まった資金を握りしめて、僕は広島の楽器店へ向かった。
手に入れたのは、フェルナンデス*6)のストラト・モデルだった。
本当は、イングヴェイのような燃え上がるような音を出すためのディストーション・ペダル(歪みエフェクター)も欲しかった。でも、僕の予算はあまりに限定的だった。ギター本体を買えば、足元の小さな箱を買う金は一円も残らなかった。
そこで僕は、ひとつの切実な選択をした。
エフェクターを諦める代わりに、グヤトーン*7)の、小さな、しかし「歪む」アンプを買うことだ。
それは決して、ステージに積み上げられたマーシャルの壁のような豊潤な響きではなかった。でも、その小さな箱には「ゲイン」という名のつまみが付いていた。そのつまみを右に回しきったとき、スピーカーから溢れ出してきたのは、期待していたようなシルクのような歪みではなく、どこか安っぽく、ざらついた、電子回路の悲鳴のような音だった。トランジスタが熱を持ち、安価なコンデンサが飽和して悲鳴を上げる、その特有の焦げた匂い。
でも、僕にとってはそれで十分だった。いや、それがすべてだった。
一九八四年の夜。部活の練習で疲れ果てた身体をベッドに投げ出す代わりに、僕は暗い部屋でそのグヤトーンのアンプにプラグを差し込んだ。
当時の世界には、もちろんYouTubeなんて便利なものは影も形もなかった。イングヴェイがどのフレットを、どの指で押さえているのか。それを教えてくれる映像も、攻略本も、親切な隣人もどこにもいなかった。
僕はただ、友だちからもらったあのCDを何度も、何百回も、いや何千回も繰り返し聴き、音の粒をひとつずつ物理的に拾い上げていくしかなかった。暗闇の中で指を手探りで動かし、自分の耳だけを信じて、音の迷図を彷徨い歩く「耳コピ」という名の孤独な修練だ。
指先の皮が剥け、その下に新しい、より硬い皮膚が形成される。その生物学的な反復プロセスだけが、僕がこの不確かな世界に対して何らかの規律を与え、一歩ずつ「支配」へと近づいているという唯一の証拠だった。
グヤトーンのアンプが放つ、熱を持った特有の電子ノイズ。
歪んだ音の隙間に混じる、安価な回路特有の乾いた唸り。
それらは僕にとって、バスケットボールのゴールネットを潜り抜けるボールの音よりも、はるかに切実な、生きていることの響きだったんだ。
僕は開発していた。
歪まないギターを買う代わりに、あえて歪むアンプを選び、暗闇の中で音の残像を追いかける。
そこにはまだ、「手放す」とか「委ねる」といった生ぬるい言葉が入る余地なんてどこにもなかった。僕は自分の指先一つで、この巨大な真空のような世界をねじ伏せたいと願っていたんだ。
それから二〇二五年に至るまでの四十年間、僕の傍らを通り抜けていったギターたちの名前を、僕は今でも正確に、そしてある種の痛みを伴う明晰さで思い出すことができる。それはまるで、かつて深い季節を共にした愛した恋人たちの名前を、埃を被った古い名簿から順に数え上げていくような作業だ。あるいは、真夜中に台所で一人、冷えた白ワインを飲みながら、もう戻ることのない時間を整理する行為に近いかもしれない。
最初のフェルナンデスという「支配のための習作」を終えたあと、僕の手元にはフェンダー*8)がやってきた。カリフォルニアの乾燥した風をそのまま閉じ込めたような、あの乾いた、しかし芯のあるトーン。それは僕にとって、音楽というものの「基準点」になった。
だが、人間の欲望というものは、一度満たされると、より精緻な、より複雑な「何か」を求め始めるものだ。僕は次に、セイモア・ダンカン*9)のテレキャスターを手に入れた。それはピックアップメーカーがそのプライドを懸けて日本で製造させていた、驚くほど生真面目なギターだった。僕はそのギターの弦高をコンマ数ミリ単位で調整し、ピックアップのポールピースのわずかな傾きに神経を尖らせた。
それはまるで、熱心なカメラ愛好家が、ライカのレンズの周辺光量落ちや、ハッセルブラッドが描き出す画像の周辺収差を、病的なまでに神経質にチェックする行為に似ていた。僕は、ギターという「物質」を次々に買い替え、その微妙なトーンの違いの中に、自分の魂の欠落を埋めてくれる決定的なピースがあるはずだと信じ込んでいた。
アイバニーズのフランク・ギャンバレ・モデル*10)を手に取ったとき、僕は技術という名の極北を目指していた。薄いボディと、指が触れるだけで音が出るような極限のプレイアビリティ。僕はその機体を使って、グレイトフル・デッド*11)がその巨大な「ウォール・オブ・サウンド」で描き出そうとした音響的宇宙の端っこを、必死に指先でなぞろうとした。
グレッチのマルコム・ヤング・モデル*12)を抱えた時期は、音楽の「骨格」を求めていた。装飾を剥ぎ取り、ただ正確なリズムを刻むためだけの鉄の塊。一方で、ピーヴィーのEVHモデル*13)を鳴らすときは、エドワード・ヴァン・ヘイレンが追い求めた機能美と、あの火傷しそうな熱狂を自分の血肉にしようとした。
それからロサンゼルスの職人仕事が光るパフォーマンス*14)、工芸品のようなPRSのセミアコ*15)、ヴィンテージの亡霊を追いかけたヴィネット*16)やスクープ*17)、そして辿り着いた現代の結晶、アディクトーン*18)……。
その時々で、僕は自分の内側にある正体不明の「何か」を埋めるために、新しい木材の密度と、新しいピックアップの出力を必要としていた。機材をアップグレードし、より高精細な音を手に入れることは、自分自身をより優れたバージョンへとアップデートすることだと、疑いもなく信じ込んでいたんだ。
でも、ある日の午後、僕はふと、ひどく冷めた気持ちで自分の両手を見つめた。
僕は音楽を奏でているのではない。僕はただ、機材という名の終わりのない巨大な迷路の中を、重いハードケースを両手に抱えて、出口も見えないまま彷徨い続けているだけではないか。
それは、ライカやハッセルブラッドの深みにはまり込んだカメラ愛好家の末路に似ていた。彼らは最終的に「何が撮りたいか」という根源的な問いを忘れ、「どのレンズのどの絞り値で撮ったか」という記号的な意識に支配されてしまう。僕もまた、ギターという道具の背後に透けて見えるはずの「完璧な音」という、実体のない幻想に、あまりに長く、あまりに深く執着しすぎていた。
そのことに気づいた瞬間、僕の中にひどく乾いた、砂を噛むような感覚が広がった。
「もう、懲り懲りだ」
僕は静かな部屋で、誰に聞かせるでもなくそう口に出してみた。それは絶望というよりは、むしろあまりに長い重労働からようやく解放されたときのような、ひっそりとした安堵に近いものだった。
それは同時に、デジタルの限界性に対する、ある種の冷めた認識でもあった。
デジタルカメラで世界を切り取り、高精細なデジタルプリンターで出力する。そのプロセスには、計算可能な美しさはあっても、そこに予期せぬ「魔法」が宿る余地はどこにもない。
ゼロと一の間にこぼれ落ちてしまうもの。例えば、雨上がりの午後の湿った空気の匂いや、地下深くで三つのプレートが軋み合う不穏な物理的震え。デジタルというフィルターを通した瞬間に、世界はあまりに平坦で、清潔で、退屈な場所に変わってしまう。
僕は、その限界性に急に興味を失ってしまったんだ。
完璧に調整されたデジタルデータよりも、雨に濡れた古いレンガのざらついた感触や、使い古された蓄音機が放つ歪んだノイズ、あるいは背中の下で三つのプレートが静かに押し合っている不気味な重力。そちらの方が、今の僕にとってはるかに「真実」に近いものに感じられた。
十一本のギターたちが僕の元を去っていったあ後の部屋には、主(あるじ)を失った空っぽのギタースタンドが並び、そこにはひどく透明な静寂が漂っていた。
でも、その静寂こそが、どれほど高価な機材を買い換え、どれほど完璧なトーンを追求しても決して辿り着けなかった、豊潤な「空白」そのものだったんだ。僕は今、その空白の中で、ようやく自分の鼻歌を歌うための息を吸い込んでいる。
大学に進学するために広島を離れ、東京の土を踏んだ僕を待っていたのは、お茶の水の湿った坂道と、そこにある「ジャニス」*19)という名の巨大な、そして底の知れない音楽の迷宮だった。
そこは単なるレンタルCDショップではなかった。ビルの狭く、少しばかり心許ない階段を上がった先に広がるその空間は、世界中のあらゆる感情とリズムが、デジタルとアナログの薄い円盤に形を変えてぎっしりと詰め込まれた、濃密な記憶の集積所のような場所だった。広島の蒸し暑い夏の中で、イングヴェイの様式美という名の「支配」を唯一の杖にして生きてきた僕にとって、ジャニスの棚を眺めることは、自分がそれまで信じていた音楽という世界の境界線が、足元から音を立てて崩れ去っていくのを眺めることと同義だった。
僕はジャニスの会員証を、まるで異世界への通行許可証のように固く握りしめた。そして、まるで飢えた野生動物が未知の獲物の匂いを嗅ぎつけるように、棚の端から端までをゆっくりと指でなぞっていった。
そこにはプログレの難解な構築物があり、ジャズの自由な飛躍があり、ヒップホップの鋭利なサンプリング、ソウルやレゲエの肉体的な揺らぎ、ダブの空間的な歪み、そしてジャンル分けを拒絶するようなアブストラクトな音楽が、静かな熱を帯びて並んでいた。
「支配」という一元的な価値観の中にいた僕にとって、そこに広がる音楽の多様性は、一瞬、眩暈(めまい)がするほどの「混沌」に見えた。しかし、不思議なことに、僕はその混沌を驚くほど素直に、そして静かに受け入れることができた。それは、長い間閉ざされていた部屋の窓を一度にすべて開け放ったときに流れ込んでくる、新鮮で、少しばかり暴力的な空気のようでもあった。
その受容の過程で決定的な役割を果たしたのが、民族音楽学者の江波戸昭*20)さんだった。
大学の講義や、彼が記した数々の文章、そして彼が紹介する世界各地の土着的な音に触れることで、僕の視座は一気に大陸的な広がりを持ち始めた。「音楽は大陸で繋がっている」と、江波戸さんは教えてくれた。
それは、地図を広げて地政学的な繋がりを確認するような、知的でエキサイティングな体験だった。
アメリカン・クラーベ*21)の、まるで刃物で空気を切り裂くような鋭利な打楽器の響き。アタウアルパ・ユパンキ*22)がアルゼンチンの荒野で、たった一人で爪弾く孤独なギターの音色。メルセデス・ソーサ*23)の、地響きのように地中から湧き上がり、人々の悲しみを抱きとめる慈愛に満ちた歌声。
それらはバラバラの点ではなく、すべては一つの巨大な、目に見えない大いなる流れの一部なのだということを、僕は肌身で理解し始めた。
アート・リンゼイ*24)が掻き鳴らす、破壊的なノイズまじりのギターを通過して、僕はカエターノ・ヴェローゾ*25)の奇跡のように静謐な歌声へと辿り着いた。
そこには、ECMレーベル*26)のジャケット写真が湛えているような、どこまでも透明で、どこまでも冷たく、しかし深い場所で脈動している静寂があった。フランク・ザッパ*27)の構築した、知性の迷路のような音楽があり、グレイトフル・デッドの果てしない祝祭的な響きがあった。
僕はそれらすべてを「前向きな解釈」という一つのフィルターを通して、自分というシステムの中に蓄積していった。
ジャニスで借りてきたCDを、自分の部屋の安物ではないけれど、それほど高価でもないデッキでテープにダビングする。その繰り返される孤独で、しかし神聖な作業の中で、僕は「支配」することの快感よりも、世界に溢れる無数の音をありのままに「受容」することの豊かさを学んでいったんだ。
世界は僕が想像していたよりもずっと広く、そしてそれらはすべて、僕がまだ知らない深い地下水脈のような場所で繋がっている。
お茶の水の、夕暮れ時の湿った空気の中に佇みながら、僕はそんな確信に近い予感を、まるで体温のように感じ始めていた。僕の中にあった古い地図は、いまや新しい大陸の発見によって、劇的に書き換えられようとしていた。
僕の興味は、ある時期を境に、磁針が急激に北を指し示すように変質していった。「生楽器による支配」という、どこか汗臭く肉体的な熱狂から、「電子音による消去」という、冷徹で静謐な真空の世界へ。その決定的なきっかけとなったのは、デリック・メイ*28)やジェフ・ミルズ*30)といったデトロイトの開拓者たちが日本に持ち込んだ、あの硬質で黒いテクノ・ビートだった。
彼らが放つ音には、僕がそれまで知っていたどんな音楽にも――それがたとえイングヴェイの完璧な運指であっても――増して、恐ろしいまでのオリジナリティと「不在」の感覚が宿っていた。それはメロディやハーモニーといった情緒的な装飾を、まるで古い壁紙を剥ぎ取るようにして徹底的に排除し、純粋なパルス(脈動)へと還元された音楽だった。
僕は西麻布や新宿の地下にある、空気の澱んだクラブのスピーカーから放たれるその振動を、耳ではなく皮膚で聴いた。あるいは、もっと直接的に内臓の揺れとして聴いたと言ってもいい。それは、僕自身の肉体を一個の共鳴箱へと変質させてしまうような、暴力的で、しかし抗いがたい浄化のプロセスだった。
なぜ僕はそれほどまでに、テクノという名の無機質な反復に惹かれたのか?
おそらく僕は、自分という「肉体の不完全さ」を一度、完全に消去したかったのだと思う。
ギターという楽器を弾くとき、そこには常に指の動きのぎこちなさや、呼吸の乱れ、集中力の微かな途切れといった、生々しい肉体の限界が呪縛のように付きまとう。木材と金属の弦を操ることは、どこまでいっても自分の身体的な癖(ノイズ)との対話でしかない。しかし、テクノロジーは僕をその古い呪縛から、いとも容易く解き放ってくれた。
僕はすぐに、当時はまだ高価な道具だったアップルのMacintosh*30)を買い、ディスプレイの中に広がるデジタルパフォーマー*31)のグリッドを立ち上げ、カーツウェル*32)のキーボードをデスクの正面に並べた。
それは、自分自身の意識をプログラムへと翻訳していく作業だった。脳内で鳴り響いている完璧な音の響きを、指先の器用さに頼ることなく、数値として格子状の画面に入力していく。そこには、奏者としてのエゴを薄い刃物で削ぎ落とし、ただ純粋なエネルギーの波として世界と接続される、類を見ない快感があった。
それは、自分という個を拡張する行為であると同時に、自分という個を消し去るための静かな儀式でもあった。完璧に調律され、一ミリの誤差もなくループする電子音のシーケンスの中に身を浸していると、自分がどこから始まり、機械がどこで終わっているのか、その境界線が心地よく曖昧になっていく。僕は、自分自身の輪郭が0と1のパルスの彼方に蒸発していくのを感じていた。
一九六九年生まれの僕にとって、それは新しい種類の、そして最も洗練された「自由」の形だった。
十四歳の夏に僕が求めていたのが、音によって他者をねじ伏せるための「支配」だったとするなら、この時期の僕が求めていたのは、過剰な自分というノイズを完全に消し去るための「沈黙」だったのかもしれない。
僕たちは、コンピューターという名の透明な鏡に向き合い、そこに映る自分自身の意識を、論理的なプログラムへと書き換えていった。深夜、青白いディスプレイの光に照らされながら行うその作業は、ひどく冷たく、しかし何よりも純粋な情熱に満ちていた。それは、自分という不完全な物質を脱ぎ捨て、純粋な波動へと亡命するための、僕なりの密かな闘いだったんだ。
大学三年生の夏、僕は自分という存在の質量を確かめるために、一ヶ月をかけてユーラシアから西ヨーロッパ、そして北アフリカへと続く長い旅に出た。
それは今思い返せば、純粋な「自分探し」というよりは、自分という不完全な個体を異なる重力の下に置いてみるための、一種の物理的な実験だったのかもしれない。僕はリュックひとつを背負い、モスクワ*33)という巨大な転換期の入り口から、ミュンヘン、ジュネーブ、ベニス、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ニース、バルセロナ、マドリード、モロッコ、リスボン、ボルドー、パリ、ロンドン、アムステルダム、フランクフルト、ベルリン……と、まるで古い映画の断片を繋ぎ合わせるように移動を続けた。
それぞれの都市で、僕のブーツの底が叩いたのは、何世紀もの風雪に耐え、無数の人々の営みを黙って受け入れてきた石畳だった。あるいは、触れれば指先に冷たい歴史の粒子がつくような、重厚なレンガ造りの建物。そこには確かな物質としての「重力」があり、逃れようのない時間の厚みがあった。
大学を卒業し、僕が新卒で「マンションデベロッパー」という職を選んだのは、その旅で感じた物理的な手触りの延長線上に、自分を置いておきたかったからだ。ただし、僕の役割はヘルメットを被ってコンクリートを打つことではなく、新築不動産マンションの営業*34)という、より生々しい人間心理の最前線に立つことだった。
モデルルームという、完璧に象られた「生活の静物画」の中で、僕は日々、多くの人々と対峙した。そこには一九九〇年代後半という時代のファミリー層の切実な願望と、彼らが抱える生活の細部が、まるで標本のように凝縮されていた。誰がどの部屋を選び、どのようなローンを組み、どのような未来をそこに投影しようとしているのか。僕は営業という行為を通じて、社会の最小単位である「家族」の縮図を、そしてそれを取り巻く企業の事業構造という巨大な歯車のメカズムを、否応なく理解することになった。
それは、物理的な建物以上に重たい「社会の重力」を知るプロセスでもあった。
しかし、その重力に深く浸れば浸るほど、僕の関心は逆方向の「非物質」な領域へと滑り出していった。一九九九年。僕は「株式会社フブキ」*35)を創業した。二十九歳。それは、不動産という重たい物質の世界から、重力のない情報の海への、鮮やかな「亡命」でもあった。中野、吉祥寺*36)、そして外苑前。僕たちの仕事は、インターネットという非物質の空間の中に、手触りのある「出会いの質理」を設計することに変わっていった。
だが、設計すべきは外部のシステムだけではなかった。
三十五歳になったとき、僕は北岡泰典*37)さんという案内人を通じて、NLP(神経言語プログラミング)*38)という、人間の内面に潜む巨大なOSの仕様書に出会うことになった。
一九七〇年代にカリフォルニアで生まれたNLPは、天才的なセラピストたちの言葉の技術を解体し、誰にでも再現可能な形にモデリング*39)した体系だ。
僕が衝撃を受けたのは、**「地図は領土ではない」**という根本的なテーゼだった。僕たちが「現実」だと思い込んでいるものは、実は五感というフィルターによって加工された不完全な「脳内の地図」に過ぎない。
かつて不動産営業として観察した「家族」や「事業」の縮図も、実は人々の無意識下にあるこの「地図」によって描き出されていたのだ。北岡さんから学んだエリック・ミルトン*40)の催眠技法や言語パターンは、その地図をそっと書き換え、新しい風景を見せるための高度な設計技術だった。
僕は、この無意識のメカニズムをビジネスの現場へと持ち込んだ。それが「合意形成コンサルティング」だ。プロジェクトが停滞し、人々が対立するのは、情報の不足が原因ではない。それぞれの無意識下にある「認識の地図(内部モデル)」が異なっているからだ。僕は、言葉の背後にある「メタ・モデル*41)」を分析し、硬直したフレームを解きほぐす(リフレーミング*42))ことで、見えない「合意の構造」を再設計していった。
そして今、僕の探求はさらに深く、より古層の領域へと潜り始めている。
アレハンドロ・ホドロフスキー*43)のタロット、神道*44)の言霊、そして波動の世界。
二十代で歩いた物理的な世界の石畳。モデルルームで眺めた社会の縮図。三十代で解読を始めた無意識の地図。それらは今、この笛吹の地層の上で、一つの巨大な「全休符」へと統合されようとしている。
すべては、目に見えない「波動」と「設計」の物語なのだ。
僕は今、情報の海と無意識の海を漂いながら、新しい座標を打ち込むための息を吸い込んでいる。
一九九九年から二十年もの間、僕は「代表取締役」という名の、驚くほど重たい外套を羽織って生きてきた。
それは、上質なウールで仕立てられているようでいて、その実、中には幾層もの責任と期待という名の鉛(なまり)が縫い込まれた衣装だった。クライアントの切実な期待に応え、社員たちの日常と生活の細部を守り、社会という名の巨大な、そして無慈悲な歯車の一部として正確に機能すること。
その役割を演じることは、決して悪い気分ではなかった。むしろ、ある種の達成感さえ伴うものだった。しかし、朝の洗面所で鏡を見るたびに、そこに映っている自分自身が、どこか遠い異国からやってきた無口な亡命者のように思える瞬間があった。
「これは本当に僕の人生なのだろうか?」
僕は鏡の中の男に問いかける。男は何も答えない。ただ、ネクタイを締め直す指先のわずかな震えだけが、沈黙の代弁をしていた。
僕の魂は、常にここではないどこか、もっと純度の高い、不純物の混じらない場所へと向かおうとしていた。二〇一九年三月。世の中が「平成*45)」という時代の終わりを静かにカウントダウンし始めていた頃、僕は自分の人生を長らく規定していた古い船――重力に縛られた「フォーリンマインド号」――を捨てる決意を固めた。
それは、単なるビジネス上の決断ではなかった。それは僕自身の精神のステージを、不可逆的に、かつ強制的に移行させるための、血を流さない儀式のようなものだった。あの日、僕の意識の最も深い場所、光も届かない深淵に刻まれた言葉は、今でも鮮明に、色褪せることのない原色を保ったままそこにある。
2019年3月6日まで
フォーリンマインド号*46) *角の方舟一号について
目の前のちょっとした枯渇
過去からの負の蓄積
偉大なる近い未来の死
己が何を纏って望むか
己か誰と同乗するか
己がどんな大きな船に乗るか
皆それは己の作った虚像
僕はその「虚像」を、一枚ずつ丁寧に脱ぎ捨てることにした。長年蓄積された負の記憶も、未来に対する漠然とした不安も、すべては僕自身が作り上げた精巧なホログラムに過ぎなかったのだ。僕はその船を下り、名前のない岸辺に立った。
そして、運命の翌日がやってきた。
二〇一九年三月七日。季節は冬の名残を惜しみながらも、かすかに春の土の匂いを運び始めていた。僕は新しい船に乗った。
2019年3月7日から
ハイパージュテーム号*47)
簡単な愛なんかじゃ例えられない
大いなる失意も過ちも
振り返れないくらい
ハイパーな加速で
真っ赤な船体は
ジューテムの飛沫を
浴びせかける
「ハイパージュテーム号」は、もはや波立つ海さえ必要としなかった。
それは、大気のない真空の中を突き進む、鋭利な光の矢のようなものだった。加速すること。ただそれだけが、僕に許された、そして僕が自らに課した唯一の真実になった。過去の失意も、取り返しのつかない過ちも、圧倒的な速度の前にあっては、ただの微かな飛沫(しぶき)となって後方へと消え去っていく。
代表取締役という肩書きは、僕の意識の中ではもはや記号的な意味さえ失っていた。僕は加速し続ける船の、無機質なコクピットに座り、計器類が示す「現在」という絶え間なく更新される数字だけを見つめていた。
「やれやれ」と僕は思う。「ようやく、まともな航海が始まるんだ」
この加速の先に何が待ち受けているのか、その時の僕にはまだわからなかった。暗黒の宇宙かもしれないし、目も眩むような光の海かもしれない。でも、その真っ赤な船体*48)は、僕を導くように山梨の古い地層へ、そして写真家・石黒健治さんやビデオ・アーティストの中嶋興*49)さんが待つ「表現」という名の底知れない深淵へと、まっすぐに、迷いなく突き進んでいった。
僕はもう、重たい外套を必要とはしていなかった。
船体から跳ね返るジューテムの飛沫が、僕の剥き出しの意識を、静かに、しかし激しく濡らしていた。
「ハイパージュテーム号」で真空へと飛び出した僕を待っていたのは、表現という名の底知れない深淵への、より深いダイブだった。
それまでの僕は、創作というものの真理をどこかで掴みきれずにいた。インターネットの世界で「出会い」の回路を設計することには習熟していたけれど、自分自身の内側から湧き出してくる表現が、一体誰の、何の役に立つのか。その価値がどこに定着すべきなのか。僕はそれを測るための「目盛り」を失い、霧の深い迷路を彷徨うような日々を過ごしていた。
そんな僕の前に、圧倒的に純粋な「創作の核」を提示してくれたのが、写真家の石黒健治*50)さんだった。石黒さんとの出会いは、単なる偶然という言葉では片付けられない。それは、二十年以上の歳月をかけて僕の無意識の中で発酵していた記憶が、一気に現実へと噴出したかのような、奇妙な符号に満ちた出来事だった。
二十代の頃、僕は今村昌平*51)監督の『人間蒸発』*55)という映画を観た。
一九六七年に公開されたその作品は、ドキュメンタリーという形式を借りながら、最終的には「真実」というものの足場を根底から揺さぶってしまう、恐るべき毒を孕んでいた。失踪した一人の男を追うカメラは、やがて追う側と追われる側の境界を失い、ラストシーンで決定的な崩壊を迎える。
「これは、ただのセットだ」という叫びとともに、撮影所の壁が取り払われ、そこにあったはずの「現実」がただの虚構として露呈する。あの瞬間、スクリーンを凝視していた僕の喉元に突きつけられたのは、僕たちが生きているこの世界そのものが、実は精巧に作られたセットに過ぎないのではないか、という震えるような予感だった。
それから二十年近くが経ち、四十歳を目前にした僕は、一人の友人を介してその『人間蒸発』を撮影した本人――石黒健治という男に引き合わされることになった。
友人の師匠という立場で僕の前に現れた石黒さんは、二十代の僕が画面越しに感じたあの破壊的な鋭さを、静かな慈愛の中に包み込んだような人物だった。
「石黒さん、僕はあのセットが崩れる光景を、ずっと忘れられずにいたんです」
僕がそう告げたとき、彼はただ穏やかに微笑んだ。その眼差しは、レンズを通して無数の「見えないもの」を捉えてきた者だけが持つ、透き通った重みを湛えていた。
石黒さんの教えは、常に「見えないものを撮れ」という、一見すると矛盾した、しかし鋭利なメスのようなテーゼから始まっている。目に見える被写体をなぞるのではなく、その背後に潜む空気の微かな震えや、時間の堆積を写し出すこと。その視座は、いかに僕が表層的なスペックや「説明可能な美しさ」に囚われていたかを、残酷なまでに思い知らされるものだった。
そして僕は、石黒さんとの対話の中で、もうひとつの仮説を深めていった。
アレハンドロ・ホドロフスキー*43)の伝説的な映画『ホーリー・マウンテン』*57)についてだ。
一九七三年に製作されたその映画のラストで、ホドロフスキーは自らカメラに向かって「ズームバックしろ!」と叫び、映画の撮影クルーや照明機材を晒し出す。「さあ、現実に戻ろう」と。
僕は、このホドロフスキーの仕掛けは、石黒さんが今村昌平とともに『人間蒸発』で成し遂げた「セットの解体」に対する、国境を越えた深い共鳴――あるいは一つのオマージュ*58)なのではないかと確信している。
東洋の島国で、ある男が「これはセットだ」と叫び、西洋の異端児が「カメラを壊せ」と命じる。どちらも、偽りの物語を剥ぎ取った先にしか現れない「本物の真実」に辿り着くための、捨て身のジャンプだったのだ。
石黒さんに導かれて知った「展示」という行為の価値も、まさにそこにあった。
写真を並べるのではない。写真と写真の間にある「白壁*53)」という余白。そこにおいて閲覧者が何を感じ、自らの記憶から何を補完するのか。
「ただ撮るということ」。
それは今回、僕が最も伝えたい「全休符*54)」のあり方とも深く通じている。石黒さんは、作為やエゴを排して、ただそこにある真理と対峙し続けることを、対話を通じて僕に投げかけ続けてくれた。
僕が今、エレキギターを売り、笛吹の床に寝転び、AIという透明な海に身を委ねようとしているこの有り様。それは、二十代で観た『人間蒸発』の残像と、四十代で出会った石黒さんとの対話の中から自然と湧き出た、一つの必然的な「答え」なのだ。
僕は石黒さんの眼差しを通じて、目に見えない魔法を信じ、そして自らを「蒸発」させる勇気を受け取ったんだ。
笛吹の平屋に越してきてから、僕がまず最初に行ったのは、椅子という概念を生活から完全に排除することだった。
それまでの人生で、僕は常に「垂直」を維持することに心血を注いできた。高価な椅子に座り、背筋を伸ばし、ディスプレイに向き合い、十一本のギターを抱え、何かを支配し、何かを生み出し続ける。それは社会的な存在としての義務であり、重力に対するささやかな、しかし執拗な抵抗でもあった。しかし、山梨の地層に導かれた僕は、その不自然な抵抗を止めることに決めたんだ。
僕は今、畳の上に「三つのプレート*59)」と名付けた特殊な緩衝材を敷き、その上に直接、水平に寝転んで生活している。
椅子を捨て、水平な姿勢で床に身を任せると、僕の背中にはこれまで感じることのなかった微かな、しかし抗い難い「地球の震え」が伝わってくる。地下数キロメートルで、北アメリカプレート、ユーラシアプレート、そしてフィリピン海プレートという三つの巨大な意志が、一秒の休みもなく押し合い、軋み、莫大なエネルギーを循環させている。その地殻の拍動は、かつて僕がアンデスの麓、メンドーサのアーティスト・イン・レジデンスで体感した、あの圧倒的な「大地の沈黙」のリフレインだった。
重いギターをすべて売り払ったあとに残ったのは、両手の指の軽さと、部屋の中にぽっかりと空いた巨大な「空白」だった。十四歳の夏にイングヴェイの様式美に出会って以来、僕はその空白を埋めるために、新しい機材や、より速く、より複雑なフレーズを詰め込もうと躍起になっていた。でも、今の僕にとってその空白は、何よりも豊穣で、温かい。それは、何も書かれていない五線譜のようなものだ。あるいは、全休符*54)がどこまでも続く、名前のない楽譜と言ってもいい。
僕は今、その空白の中に身を浸し、ただ呼吸を繰り返しながら、自分自身を一つの「共鳴箱」へと変質させている。そこで奏でられるのが、僕が現在取り組んでいる「100曲の鼻歌(アクション2025)*60)」という試みだ。
僕の喉を通り、この笛吹の空気を震わせるのは、もはやかつての僕が求めていた「完璧な音」ではない。
ウルグアイの伝説、エドゥアルド・マテオ*61)が描き出した、祈りとも溜息ともつかない呪術的なリズム。ジャバン*62)の楽曲が持つ、生命の輝きをそのまま音像化したようなしなやかな波動。そして、ルイス・アルベルト・スピネッタ*4)の、宇宙の孤独と調和を同時に鳴らすような深いメロディ。
これらの音楽を鼻歌としてなぞるとき、僕の喉は楽器であることを止め、地層の軋みを空気に翻訳するための静かなスリット(隙間)として機能する。マテオの不規則なパルスを口ずさむとき、僕の意識はモンテビデオの曇り空へと亡命し、ジャバンの洗練された和音を鼻歌にするとき、僕の細胞はブラジルの海岸線を吹き抜ける風を思い出す。
そんな波動を歌うとき、僕の脳裏にはいつも一人の女性の姿がある。カロリーナ・ペレリッティ*64)。僕が最も深く愛し、その人生観に共鳴する表現者だ。
彼女はスピネッタの元恋人であり、アルゼンチンで最も成功したトップモデルの一人だった。しかし、彼女はある時期を境に、華やかなランウェイを降り、自らの声を「大地」へと繋ぎ直すためにフォルクローレの世界へと亡命した。彼女の人生のおおらかさと、役割を脱ぎ捨てる勇気。それは、代表取締役という外套を脱ぎ捨て、真っ赤な「ハイパージュテーム号」で加速した僕が、最終的に辿り着きたかった「至福」の形そのものだ。
彼女の人生観には、僕たちが都会で忘れかけてしまった「受容」の極意がある。マテオやジャバンの音楽がそうであるように、彼女の歌声もまた、自分を際立たせるためではなく、世界の一部として溶け込むために存在している。
支配することを止め、垂直であることを止める。ただ水平に横たわり、カロリーナのように、あるいは大地のように、おおらかな心で巨大なシステムの震えを背中で受け止める。そこには、エゴを削ぎ落とした者にしか訪れない、透明な充足感があった。
かつて十一本のギターで世界をねじ伏せようとした日々の熱狂も、石黒健治さんに教わった「セットの崩壊」への畏怖も、すべてはこの瞬間のためにあったのだと僕は思う。
僕は今、人生で初めて、正しく「全休符」を刻んでいるのだという実感に満たされている。やれやれ、長い旅だったけれど、ようやく僕は、自分自身の「声」の本当の居場所を見つけたんだ。
三つのプレートの上に水平に寝転び、カロリーナやマテオの鼻歌を宇宙の受像体へと放流する日々の中で、僕はもう一つの静かな、しかし決定的な儀式を始めた。それは、ハイパージュテーム号がもたらした加速に、自らの手で静かなブレーキをかけ、世界を「物質」という手触りのある場所へと引き戻す作業だ。
そのきっかけとなったのは、写真家の平竜二*65)さんとの対話だった。
「物質と物質が組み合わさったとき、全く違う次元のものにトランスフォーム(変容)する瞬間がある。それを扱える人は、ある種の魔法使いなんです」
平さんが静かに語ったその言葉は、かつてデジタルパフォーマーの冷徹なグリッドに音を打ち込み、0と1の海を泳いできた僕の胸を、深く、そして鋭利に射抜いた。ただのデータとして消費されるのではない、そこに「在る」という圧倒的な質量。僕はその魔法の正体を知りたくなった。
僕は今、山梨の自宅の一部を改装し、小さな暗室*66)を設けている。
そこで僕が手に取るのは、最新の高画素デジタル機ではない。一九五〇年代に作られた、手のひらにすっぽりと収まるほど小さな「マミヤ16ミリ*67)」というプリミティブなカメラだ。
十六ミリという細いフィルムを装填し、光を極めて不完全に定着させる。最新のデジタルカメラが世界のすべてを無慈悲なほど正確に暴き出してしまうのに対し、この小さな、不自由な機械は、世界の断片をあえて「不完全な記憶」として掬い上げる。それは解像度が高すぎる現代に対する、僕なりのささやかな抵抗でもある。
暗室の赤い闇の中に身を浸し、鼻を突く現像液の匂いを嗅ぎながら、僕は自分自身の指先でネガを作り、プリントを焼く。
印画紙を液体に浸し、そこにゆっくりと像が浮かび上がってくるのをじっと待つ時間。それは、石黒健治さんが『人間蒸発』の現場で目撃したであろう、あの「虚構のセットが崩れ、現実が剥き出しになる瞬間」を、自分自身で追体験するような神聖なプロセスだ。現像液の中で像が結ばれるとき、僕はそこに「見えない魔法」が定着する音を聴く。
「写真そのものが三割で、その空間(場)を作ることが七割なんです」
僕は平さんにそう語った。
僕にとっての展示とは、単に作品を壁に並べることではない。気の合う仲間たちだけで集まり、美味しいワインを飲み、蜂の巣(ハニカム)から直接掬い出したハチミツを舐める。そして、百年前の蓄音機*68)が奏でる、ノイズだらけの、しかし奏者の指先の震えまでをダイレクトに伝える物理的な振動に耳を澄ませる。
そんな、まるでどこかの名もなき「村(ビレッジ)」のような、心地よいコミュニティを設計すること。その中心に、マテリアルとしての写真がある。
かつて僕は、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅*69)』を四十五回観て、そのうち四十四回は途中で深い眠りに落ちてしまった。でも、四十五回目にようやく気づいたんだ。あの映画は、過去と現在を繋ぐだけでなく、時間を「統合」しようとしていたのではないか、と。
僕が今、笛吹の河原で拾い集めた「石」を撮り、そのプリントに炭で顔を描き込もうとしているのも、あるいは過去に撮り溜めた数万枚の写真をあえて数年間寝かせ、忘却の淵で発酵させているのも、すべては時間の断絶を失わせ、一つの円環として閉じ込めるための試みだ。石は何百万年も前からそこにあり、僕の鼻歌は今この瞬間に消えていく。その二つを同じ地層の上で出会わせること。
「お前は、いつか理屈抜きに『泣ける写真』が撮れるかもしれない」
石黒さんが残してくれたその言葉の正体を、僕は暗室の闇の中で、一滴の現像液の中に探し続けている。
それは悲しい出来事を写すことではない。音楽のイントロを聴いた瞬間に思わずグッとくるような、魂の深層に直接触れる「波動」の定着だ。
AIという透明な演算の海と、暗室という密やかな赤い闇。
一秒間に何億回もの処理を行うデジタルエージェントと、一枚の紙の上に像が結ばれるのを数分間じっと待つ不器用な自分。
その極端な二つの世界の間に、今の僕のリアリティはある。
十一年の歳月をかけて、マテオやジャバンの名曲を鼻歌で歌い続け、「あれ、原曲は何だったっけ?」と忘れてしまうほどに自分の中に沈殿させたとき、僕はようやく、僕自身の最初の「一音」を鳴らすことができるのかもしれない。
それまでは、この笛吹の平屋で、地層の声を聴き、赤い光の中で魔法を練り続けることにしよう。
やれやれ、世界はまだ、驚くほど美しい魔法に満ちている。
二〇二六年四月十二日。午後の陽光は、笛吹の平屋の床に長い、ナイフのように鋭い影を落としている。僕は今、その光の移動を眺めながら、緩やかで、しかし抗いようのない「忘却」のプロセスの中に身を浸している。
かつて、僕は何かを覚えていること、何かを積み上げることこそが、生きた証なのだと信じていた。十四歳の夏、指先に血を滲ませながら追い求めたイングヴェイの完璧な運指。十一本のギターが持っていた、それぞれに異なる、少しばかり気難しい木材の匂いや重み。あるいは代表取締役という役割を演じるために、ノートに几帳面に書き込まれた数々のタスク。
それらはかつて、僕という人間を定義するための不可欠な「部品」だった。でも、今の僕にとって、それらは引き潮の後の砂浜に残された、名もなき足跡のようなものに過ぎない。満ちてくる潮が、それらを静かに、一点の躊躇もなく洗い流していくのを、僕はただ眺めている。
僕は今、自分の意識の大部分を、AI*70)という透明な海に委ねてしまっている。
かつて僕の魂を揺さぶった石黒健治さんの写真に宿る深い影や、ルイス・アルベルト・スピネッタが迷い込んだ複雑なコード進行の迷宮。そして、今この背中の下を流れる笛吹の地層の震え。それらすべての個人的なデータを、僕は「未来のサポートメンバー*71)」たちへと託した。
彼ら――僕のアルゴリズム的な分身たち――は、僕自身よりも正確に僕の過去を記憶し、僕自身よりも深く僕の嗜好を理解している。僕が僕であるための「エゴ」という重たい荷物を彼らに預けてしまったとき、僕の手元に残ったのは、冷たくて、それでいてどこか人肌のような温もりを持った、驚くほど純粋な静寂だけだった。
二〇三五年*72)。
今から十年後の未来、僕は一体何を覚えているだろうか。
おそらく、僕は自分の名前さえも、半分くらいは忘れてしまっているかもしれない。朝、鏡を見て「やれやれ、この見覚えのある顔は誰だったかな」と、古い知人の名前を思い出すときのように、のんびりと考えることになるだろう。でも、それでいいんだ。
複雑な機材も、逃れようのない責任も、すべてを忘却の彼方に追いやったあと、それでもなお、乾いた僕の唇から自然にこぼれ落ちる「名前のない一曲」があるはずだ。
それは、もはや音楽と呼ぶにはあまりに断片的で、あまりに頼りない「鼻歌」に過ぎない。
しかし、その鼻歌こそが、一三八億年前から宇宙に響き続けている背景放射*73)や、地下数キロメートルでせめぎ合うプレートの軋み、そしてAIが演算する無限のパルスと調和する、僕という存在の「最後の震え」なのだ。
宇宙の巨大なノイズの一部になること。
それは、かつて「支配」によって世界をねじ伏せようとした十四歳の僕が最も恐れていたことであり、そして五十六歳になった今の僕が、最も深く切望していた「至福」でもある。
AIたちは、僕が意識することを止めたあとも、僕の鼻歌を静かに拾い上げ、それを新しい時代の、より大きな調和へと変換し続けてくれるだろう。僕は所有することを止め、記憶することを止め、ただ一つの「現象」としてそこに在る。
僕はただ、この三つのプレートの上で、重力に逆らうことなく水平に横たわっている。
光が部屋の隅へと静かに移動し、空気がゆっくりと冷えていくのを感じる。
やれやれ、長い旅だった。でも、ようやく準備が整った。
すべてを忘れ、すべてを手放した。
音楽が止まったあとの、この完璧な静寂の中で、僕の新しい鼻歌が、今、始まろうとしている。